「企業はなによりも、
アイデアであり、アイデアを生むことのできるのは個々の人間だけである。
勇を鼓して自ら思考し、
“既成観念”にあえてそむける人なくして、
その企業の成長と繁栄は望めない」
ドラッカー
なぜ苗場スキー場でウォークマン2をしたのか?
雑誌やテレビではスキーヤーのファッションチェックを特集で
いつも見ていたのでこれは苗場スキー場で
ウォークマンの商品価値をあげようと
僕一人がたくらん1981年の年末からの冬!
それまでは
苗場スキー場にはひとりで終末はマイカーで往復!
それから
苗場の向かい側のスキー場で
浅貝スキー場でスノーボード選手権の第1回が開催された!
もしかして
僕がたくらんだのは
スキーヤーのサーファーがこちらに転向する!
僕もドジ井坂プロから丸井のスポーツ館で
MOSSのスノボー購入した。
その時もウォークマン2のヘッドホンをしていた僕
ヘッドホンもウォークマン2のものがほしくても
手に入らない!
スノボーの時は
イヤフォンタイプに変わっていたかな。
いろんなスキー場に行きました。
ウォークマンをするスキーチームを結成して
ウォークマン工場から宣伝をしていた元は僕のアイデアでした。
既成観念は
マーケティングで世の中に広める仕事をするのが常識です。
でも僕は
ウォークマン工場に入社したからには
このすばらしい商品価値をスキーヤーやスノーボーダーに
知てもらいたい一心で行動していた。
スキーヤー多くは年末年始はスキー場にいます。
これは僕は子供のころから
父の弟のおじさんに小さいころから
岩原スキー場で年末年始はロッジでおしるこをたべていました^^
懐かしいですね!!!!
東宝の俳優を目指していたのでモデルでも演技するか?
そんな僕の体験が
ウォークマンを広めることを入社してすぐに始めた僕!
そこには僕なりの
ウォークマンの成長と繁栄を望んだ行動でした。
別に金はもらっていないけど
自社の製品を購入して消費者として
製品をアピールするのは全然問題はないよね!
おかげでウォークマン工場では臨時ボーナスを2回だったかな
もらいましたよ!
全部はウォークマンを広めるために宣伝費につぎ込みましたけどね!
現代では個人がテレビのように動画で
YOUTUBE動画で商品をアピールできますよね!
でも
40年前はそんなのはなかった
雑誌か
テレビか
新聞か
新聞のチラシ広告か
ネットなんかなかった!
初代ウォークマンは僕は時計部品工場で自動旋盤で部品不良ゼロを品質を守っていました。
雑誌で見た
初代ウォークマンは電気店を色々探したが売っていなかったんだよね!
そして
ウォークマン2も出てすぐに電気店を探したのだが売っていなかった!
SONYも売り方が下手でした!
っていうより
再生専門キが売れないでしょう!
電気店で仕入れてくれなかったようです。。
そこでウォークマンをおいていただいたのが
丸井のオーディオコーナーでした。
丸井ではエレベーターを上がってオーディオステレオが見える前に
目に入ってくるのは
ワゴンの中に山ずみになったウォークマン2を今でもおぼえています!
色分けにワゴンが3台シルバー、レッド、ブラック山積みになって積んでいました。
3万2千円もするものがワゴンセールのように
飛ぶように売れていたところを僕は見ています。
中途入社してすぐに丸井で売っていることを先輩から聞き出して
すぐに丸井に向かった!
1回目は売り切れでした。
2回目は仕入れの日にすぐに向かって購入できましたが
ウォークマン2を会社では造っていて
当時は会社では購入はできなかった。
その後
会社でも購入できるような体制になった。
ウォークマン2は丸井でしか購入できなかったのです。
僕も電気店を探し回ったがどこにもなかったハズですよね!
SONYでも売れっこないと反対されていたようで
井深さんと盛田さんが絶対に売れるから商品化になったけど
SONYでは反対派の邪魔もあったのか???
丸井でしかウォークマンを置けなかったのが現実のようです。
初代ウォークマンからスキーで使ってみたくて
探し回ったよ~~~~!
毎週日曜日はハコスカで探し回ったけど
どこにも売ってなかった
電気店の店員に尋ねると????
ウォークマンは置いていません!
なぜか?ヘッドホンの別売りは置いてあったかな!
あのSONYがウォークマンの売り方に苦労していた!
HSS型HSPの繊細さんは
ウォークマン工場に入る前から感じ取っていました。
売る気はあるが真新しい商品価値を誰も理解できなかった!
これって
スキーで好きな音楽をゲレンデに持ち込める最高ですよ!
だって
スキー場では演歌を流すスキー場もありましたから
ガッカリですよね!
学生の頃は
まわってまわってまわる~~~ううう~~♪
同じ曲が一日に何回もかかっているゲレンデ!
もういいよ
どのスキー場でも同じような曲ばかりでした。
自動車で好きな曲をパイオニアサウンドで楽しんで
スキー場まで行くが着いたら終了!
帰るまでは好きの音楽はお預け状態!!!
大変悲しかった時代を過ごした。
そう感じていた人に僕は届くように
商品価値をスキー場でウォークマンをしてアピールを始めたんですよ!
ほとんどがマイカーでスキー場に通いますよね
音楽を楽しみながら到着したら
帰りまでその曲はお預け!
半数以上は感じていたことでしょう!
ウォークマンの商品のコンセプトを思い出してください
それは
“いつでも・どこでも・手軽に音楽を楽しむ”
ウォークマンは“外に音楽を持ち出す”とうい
ライフスタイルの革命をしたといわれています。
初代ウォークマンやウォークマン2が
普通の電気屋に並んでいたのなら
あの頃の何倍もの人間が購入したと僕は感じていました!
SONYは売り方が下手だよね~~!
それって
僕が時計部品を造る工場で働いていたときに感じていました。
俺はウォークマンほしいのに売ってくれよ。。
どこにあるんだよ!!!
僕は引き寄せの魔法のランプをこすって願っていた!
それは俺は東宝映画の俳優をあきらめて電気エンジニアを目指していた時の
記憶が目覚めました!
何俺は油職工の自動旋盤をいじって部品不良をゼロ目標に働いていたんだろうか?
そうだよ
ウォークマンのような小型製品を造る向上で世界中に向けてお届けする仕事を考えていた!
1981年にウォークマン2が出るので雑誌で見た!
これならダウンの中に入れてスキーができる!
初代ウォークマンは少し大きすぎた。
僕は転職を決めた!
時計部品会社では工場長に止められたが
僕の決心は電気エンジニアをまた目指した!
でも
ラジオを作っている会社に面接に行ったら
高卒ではスキルが足りないと
商品開発の会社に行こうとしたら
既につぶれていた。。
引き寄せの法則の魔法のランプはすぐに効果が現れた。
それは退職して3ヶ月後に
友人からSONYの大きな看板の会社で募集している!
行ってみたら!
友人は大きなパイオニアの看板のところに転職していた。
僕もパイオニアに入れて
募集を既に終わっていた。
SONYの看板のところに
履歴書を持って中途採用枠に募集で行ったが既に終わっていた。。
以前も話したが
もろサーファーで長髪で赤もポロシャツにスラックス!
ジーンズはやめておいた!
ふざけた中途社員の枠に応募した僕!
募集は終わったけど
試験をして行くかい?
あっハイ!
僕が電気エンジニアになれるか?
SONYの看板があるので
SONYの中途採用方式のようでした。
僕はSONY社員をイメージして
ふざけた格好に見えるが僕はきわめてまじめ!
東宝映画の俳優のごとく
中途採用では僕の心の中で
映画撮影のはじめのカチンコがなっていた!
筆記試験は一般常識が出たら僕はあきらめた!
僕には普通に常識はあるが
“既成観念”にあえてそむける人なので
苦手な試験でもあった。
何なにについてどう思いますか?
それについて僕の考えを文章化した筆記試験と
適正試験これが頭が疲れたのだ!
僕の頭脳をフル回転させたのがよかったのか?
普通の人間の数倍の自信があったので適性試験では合格レベルだろうって
もしかして最高点だったのではと・・・・・
社員ナンバーで暗号化を読み取った僕!
この年の入社で最高だったようです^^
学力は小学校では最下位だったので
学力がないところには自信満々!
でも
何とか中途採用の試験には合格した!
僕は品質をよくするために入社したかった僕
製造なら募集がないけどあなたなら雇います?
その代わりお給料は新入社員と同じでスタートしてください!
お給料は時計会社の約半分だった。。
この会社を改革するために僕は中途社員になった!
SONYだから改善をしなくていいような会社なのか?
SONYルールで会社運営していた。
当たり目ですがね!
僕はドラッカーで何でもわかっちゃうのは
入社してから僕しか見えない世界があった!
それも両親からアメリカ的考えが僕にはあった。
僕が職人の息子だから日本的な職人の考えもある!
それは
日本的なドラッカー思考のようでもあったのだ。
ウォークマンの売り方が丸井にだけしか置いていなかったのには
世の中にウォークマン価値がわかっていなかったようで
僕は苗場に毎週末スキー場に行って
ウォークマン2のアピールをした。
僕はいろんなアイデアが湧き出てくる!
なぜか?
品質改善や効率改善や環境改善は父から子供の頃から教わっていた。
学力が小学生では最下位でしたが
その頃から
父から幼児期から
木工職人の品質改善や効率改善や環境改善の英才教育を受けていた。
しかも
問題改善は魚釣りを通して父から教わっていた。
ウォークマンのアピールは
母が洋服屋のマーケティングを学んでいたようで
DNAに組まれたようです。
父と母のDNAをもらったので
職人と洋服屋のスキルが僕に身についている????
イノベーション
顧客満足度
マーケティング
僕が生まれて子守唄は母の洋服屋のお話でした。
父の子守唄もアメリカの考えは日本と全然違うんだぞ~~!
面白いだろう!父はいつものお話でした。
別にドラッカー本を読んだことがないけど
僕は完全に考えることがドラッカーだったんですよ!
日本の会社って歴史は浅いですよね!
でもアメリカではどんどんと成長を繰り返して
ほとんどがドラッカー経営が当たり前だった
今は知りませんけど!
1981年にはまだまだアメリカに届かなかった。
そう
父が幼児期から僕に話をしていた!
アメリカ的働き方!
父もサマータイムで働いていて
早く帰ってきた!
僕は幼稚園に上がる前に飴玉を飲み込んだらのどに詰まってしまった!
あの時に父がサマータイムで早く帰ってこなかったら
僕は窒息してこの世にいなかった。
不思議な体験をしたのは朝霞の神社の横の借家だった!
たぶん
神様に助けていただいたようなタイミングで父が帰宅!
そして
意識を失う寸前で父が飴玉を出す方法が見つからないから
近所のお母さん方に僕を逆さにして背中を思いっきり叩いて飴玉を出す方法しかないと
父がとっさの判断!
少し背中が痛いけど飴玉を出すからな!
1回目は加減して叩いたがもう僕の意識がなくなる寸前だったので
2回目は思いっきり背中を叩いたらスッポン!っていい音で飴玉が地面に出てきた
それと同時に空気が入ってきた!
たぶん
意識がなくなりあのまま死んでしまうのか?
一ミリもおもわなかった!
絶対に父が助けてくれると考えていた!
誰一人あきらめる人間はいませんでした。
あきらめるときは僕の命が終わるときでした。
僕の問題改善は自分の命を救った経験が生かされていたんです。
絶対にあきらめない
あきらめたときはその問題は解けないことを意味する!
苗場スキー場でのウォークマン活動も
流行するまで実行していました。
ほとんどの人間がスキーとかスノボーでウォークマンをするスタイルになった。
その時に僕のウォークマン活動は終わりになりました。
そんなにスキーにも行かなくなった。
何事も死んだ気で望め!
あの子供の頃の飴玉が喉に詰まった事故の経験は大きい!
意識がなくなる寸前で生き返った!
意識がなくなったら
命は終了していたでしょうね!
他のメーカーからも
ウォークマンに似たものが発売されていたが
スキー場に持ってくる人間はいませんでしたよ!
絶対の僕は世界中でスキー場に持ち込んだ
ウォークマンする人間の第一号だったのではないかな^^
ではまた
「企業はなによりも、
アイデアであり、アイデアを生むことのできるのは個々の人間だけである。
勇を鼓して自ら思考し、
“既成観念”にあえてそむける人なくして、
その企業の成長と繁栄は望めない」
ドラッカー
これって僕は1981年のウォークマン工場に入社する前から頭の中にあったことです!
母の教えでは出る杭になると打たれる!
日本ではこれが常識で今も存在しています。
日本ではこれをすると首になる可能性が大きいからやる人間はいない!
でも僕は中途採用で新人君のお給料から
前職場の半分のお給料からスタートした。
はじめからやめる覚悟で出る杭をしていた。
安月給のほうが動きやすかった!
勇を鼓して自ら思考し、
“既成観念”にあえてそむける人
それが僕でしたからね^^
なつかしいですね!
93%の女性が絶賛した男のフェロモン香水「ボディセンス
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