SONY WM-2 カセット ウォークマン 修理 14
ウォークマンを見て技術者になろうと思った人はどのくらいいるのだろうか?
私は電気のソレノイドの会社に入って、新人君で入社したけど
いつまで経っても臨時社員?
臨時社員から半年で正社員になれるから入社したのに
半年過ぎても正社員の声がない!
2年先輩の人がいて
俺なんか2年も臨時社員のままだよって
は~~その後、社内で課長からいじめられ!
習字は習ったのですがペン字は適当だったので
あなたは字が下手だから数字の練習をしなさいって
字を書かされた。
今になってみればあの課長は新人教育も出来ない
クソ野郎だった。
早くやめてよかった。
まだウォークマンがない時代ですが
ラジオとかカセットテープとかは家にあったので
興味があって全部バラシて中身の仕組みを小学生の時には
把握していた。
そして私は時計の部品会社に入社する
今度は正社員で雇用だった。
何か目標が欲しかったので
機械の操作の仕方とか
機種切り替えの仕方とか
自動機をおぼえて7台も持たされた。
目標は不良件数ゼロ!
すっごい忙しくなったけど
機械いじりは面白かったので
すっかり憶えてしまった。
その機械はカムシャフトがひと回転すると
全部の工程がカムで旋盤の刃物がSUSの棒状の部品
自分が全部を吸収しようと
3年間は修行のつもりで
機械いじりを全部憶えたのでした。
だから
ウォークマンが出たときにメカにすっごい興味があった。
神様が引き寄せたかのように
ウォークマンと出会う!
それがウォークマン工場とは知らずに
中途採用された。
工場の中はものすごく忙しそうだった。
でも
私は中途採用で3ヶ月間は定時で帰宅!
その後は忙しすぎてテレビも見なくなった。
レコード大賞は誰なのか?
毎年お正月はスキー場にいたので
初詣は夜中の雪国の中の神社でした。
なのでレコード大賞など見ませんでした。
でも、ウォークマン工場に入社してからは
ウォークマンをすぐに丸井のクレジットカード決済で購入!
それがウォークマンⅡでした。
スキー場にはいつも持っていた。
音楽は何でも聴く人間だったので
ウォークマンが出たときはほしいな~って思っていた。
でも
まさか自分がウォークマンを作る人間になれるとは思っても見なかった。
でも
専門技術を習いたくて電気の学校を卒業!
その頃、ラジオを作っている会社近くにあった。
ラジオ製作の雑誌にラジオが掲載されていた。
こんな会社に入りたいんだよな~その頃から思っていた。
そしたら
ソレノイドの会社から
時計の部品会社に入って
それから
1ヶ月も期間が過ぎて
やっと見つかったのがその学生の頃に入社したかった会社が募集していた。
神様がいるようで私は目標だった会社に入れたのだ。
不思議な出会いです。
神様は俺を見ているかのように
吸い寄せられるようにその会社に入社できたのでした。
入社した日から
数年間は会社ってこういうものなんだって思っていた。
それは1981年時代の渦に巻き込まれたかのように
ウォークマンを作り続けた。
新しいものが設計され
製造工程でパート社員へ仕事を教え込んでミスの無いように
作らせるのだ。
そこには
仕事の教え方のプロフェッショナルになっていた。
今の現代はインターネットのビジネスを外注化しているが
まさに
仕事を外注に出していた。
近くの外注さんから
福島まで出張で外注の仕事の指導に行っていた。
そのときに思ったのが
社内のパートに教えるようにわかりやすく教えていた。
その頃は無我夢中で仕事を外注に教えていたのですが
不良が出ないように検査まで教えていたのだ。
最近になってあの頃の私は仕事を教えるプロだったのだって自覚しはじめました。
それは不良を出さぬように
相手がわかったとわかるまで会社には戻れませんでした。
まさに
仕事を教える職業だったのかも
外注加工って言って半製品の段階でした。
でもこの品質が重要でウォークマンの品質を左右していた。
メカ担当の私と同僚と技術担当の人を
冬の福島へ向かった。
まさに
仕事を教える先生でした。
インターネットビジネスでは講師と最近は呼びますが
まさにその頃は講師のような存在で
加工ラインを立ち上げでした。
ライン立ち上げは新機種ごとに立ち上げていたので
製造部の二人で立ち上げた。
そして
2週間で立ち上げて一旦戻るついでに帰りにスキー場に行って遊んで帰りました。
釣り馬鹿日誌の映画のように
スキー馬鹿だったので楽しんで帰ったら
会社にはバレバレでもう2週間行ってこいって
今度は上司付の出張でした。
今度は遊びには行けません
だって
見張り役の上司が一緒でしたから。。
しっかり仕事だけはこなして下請けの会社のパートさんに教え込みました。
教えてウォークマンを不良が無く作るのが目的の外注加工でしたので
その後も
品質がいいものだから
外注展開はいつも仕事を教える役目でした。
今までは他部署が外注化して
不良だらけだったので外注不良は他部署にガンガン返品していたのが
私だったのであいつに任せれば良いってことになったらしい。
私が教え込んだ外注加工のパートさんなので
不良は出さないですよ!
しっかりわかるまで教え込んだので
その基本となる
仕事の教え方とは
TWIのJIです。
ウォークマン工場ではリーダーさん全員が
仕事の教え方のプロフェッショナルでしたから
新人さんが入ったら仕事の教え方を教え込んでいました。
さて思い出してください!
私のはじめに働いた臨時社員で正社員になれなかった課長が
私に仕事を教えられなくて
あなたは数字が下手だから数字の練習をさせた課長さんを思い出してください!
やっぱりあの課長はクソ野郎だったと私は覚えています。
おやじのその時に相談したのですが
それはな~!
金だよ!
金が欲しいんだよ!
相談した次の日に夜遅く
その課長さんの家に行っておまんじゅうを持っていった。
はじめは受け取らなかったけど
せっかく来ていただいたけど来週からあなたは他部署に行ってもらいますって
おまんじゅうはいただいておきます。
おやじはおなんじゅうの下にお金を入れたのだろう思ったけど
ムダになってしまった。
汚い会社だ!
汚れている!
その後の正社員になれなくてよかったよ!
神様が私に世の中の仕組みを教えてくれていたかのように
ウォークマンの工場に正社員で
引き寄せられて入社した。
どこがウォークマンの修理だよって言う声がきこえてそうですが
この先のウォークマンのプロの音職人であることをわかっていただけたかと思います。
たぶん
このお話をしないとウォークマンⅡの職人の匠って嘘っぱちでないかって
疑っている人もいると思いますので
少しだけ私のプロフィールの仕事を教えるプロでもあることがわかっていただけたと思います。
部品不良をゼロに目標に持ったのは
時計工場からの中途社員の私から伝染していったものです。
少しは日本の為には働きをかけた私です。
日本のでんきメーカーの品質がいいのは部品から改善していったからです!
だって
・・・・詳しい内容はここでは書けませんね^^
海外とだいぶ差がつきましたよね!!
本当のことをいうと改善は首を覚悟で設計まで乗り込んでいこうとしていました。
っていうか設計までレポート提出もして設計を変更もかけていましたね^^
時計会社では私は世界中の数百万円もする時計のカタログを毎日にらめっこして
デザインを研究していたこともありますからも少し設計改革にも足を突っ込んで・・・
でも
設計屋さんは自由な発想をもっているので
あまり注文すると良くないと・・・・
日本全体が変わっていったのを肌で感じています。
そこまでできたのは
あの他社の新人研修で仕事の教え方が出来ない課長の元で働けたからです。
私はあの経験は今では感謝しています。
仕事を教えるのも重要なんだってすぐに思いました。
続く
SONY WM-2 カセット ウォークマン 修理 14